
「ダイヤランド」という町の名前は、この住宅街を作った企業のシンボルマークに由来しているそうです。
「ダイヤ」=「三菱」です。(写真は、ダイヤランドの入り口に掲げてあるマークです)
長崎は三菱造船の町と言っても良いぐらい、多くの人が三菱造船で働いており、このダイヤランドは三菱造船で働く人たちのために作られた町だと聞いたことがあります。
父は、この新しくできた住宅街に、新しく米屋を出店することにしました。当時、お米屋さんは「専売」なので、この新しい住宅街で唯一の米屋になることができます。大きなチャンスです。
店舗兼住宅を大手ハウスメーカーで新築し、家族で新しい家に引っ越すことになりました。私が3歳の時のことです。当時の記憶はほとんどありません。
この家に引っ越したときの唯一の記憶は、トイレに入って洋式便器を見たときに、「これ、なんだろう?」と思ったことです。それまで住んでいた家のトイレは和式便器だったのだろうと思います。覚えていませんが。
私は今、伝統的な大工技術を使って、日本人なら自然と懐かしさを感じるような、いわゆる「和風」の家を作る仕事をしていますが、私が育った家は大手ハウスメーカーが作った家で、量産された新建材を多用した工業製品としての家でした。
私が日本の伝統的な住宅の造り方を志向しているのは、子どものころの家の記憶や暮らしの体験とは無関係なのだと思います。
当然、自分が育った家ですから愛着もありますし、大切にしていきたい気持ちもあります。
でも、自分が作りたい家は、自分が育った家とは全く方向性の違うものになりました。
父はものづくりが得意で、商品のポップや、商品陳列棚を作ったり、精米機やその他の機械類を使いやすくするためのパーツのようなものを作ったりと、いろんなものを自己流で生み出すアイデアマンでした。もちろん、家の中の棚なども、父親が手作りしたものがいくつもあったように思います。
私も父親の「日曜大工」を手伝っていたと思うのですが、はっきりとした記憶はありません。
覚えているのは、いろんなものを作る父の姿を「すごいなぁ、自分もいろんなものが作れるようになりたいなぁ。」と思いながら見ていたことです。
今思い返すと、この時期の「ものづくり」への憧れが、私の大工への興味の第一歩だったのだと思います。
(つづく)