
小学校の卒業アルバムには、「将来の夢は、米屋を継ぐ」と書いていました。
しかし、前出の「米の流通自由化」の流れは加速し、私が中学生のころには米屋を取り巻く環境は激変していて、父から「米の販売だけで食ってはいけない。米屋は継ぐな。」と言われるようになりました。
(調べたところ、1995年に食糧法の改正があり、これが米の流通の大きな転換点となったようです。「ヤミ米」「自由米」「自主流通米」「ガット・ウルグアイ・ラウンド合意」など、当時のニュースを騒がせていた言葉ですが、私がこの言葉たちを鮮明に覚えているのは、自分の興味関心ごととしてニュースを眺めていたからだと思います。)
ここで私の人生も大きな転換点を迎えます。
米屋になるなと父親が言っています。
さぁ、どうしよう。目指すものが無くなってしまいました。
漠然と、何か仕事をするとしたら、ものづくりの仕事がしたいな、と考えるようになっていきました。
中学校2年生のとき、三者面談(自分と保護者と担任の先生が3人で面談する)がありました。
先生に進路の希望を聞かれた私は、「大工になりたいので、卒業したら大工の弟子に行くか、工業高校を卒業してから大工の弟子入りがしたい。」と答えました。
ものづくりへの漠然とした興味はあったものの、なぜ、明確に「大工になりたい」と思ったのかは、実ははっきりと覚えていません。そして、おそらく、「大工になりたい」と口に出したのも、この時が初めてだったのではないかと思います。横にいた母親は驚いていたかもしれません。
この答えに先生は「中学生の時に人生を決めてしまわなくてもいいんじゃない?もっといろんなことを経験してから、自分の道を決めてもいいんじゃない?」とアドバイスをくれました。
その時、横にいたはずの母親がどんなことを話したのか、全く覚えていませんが、私は先生のアドバイスを聞いて「それもそうだ!じゃあ、普通高校に行こう。」とあっさり方針転換し、ひとまず普通高校に進学することを決めました。
中学2年生当時の学校の成績は、学年の真ん中ぐらい。
私が行きたいと思った普通高校は、県内の公立高校ではトップクラスの難易度で、その時の成績では合格可能性はあまり高くなかったと記憶しています。
当時は、テスト結果の順位が全て張り出されるような時代です。「あいつは何点だったのか」などと自分の点数が、学年全員に知られているのです。それで難易度の高い高校を目指すのですから、このままでは「この点数では、あいつは合格できないな」などと思われてしまいます。
この「テストの順位が公表される」状況が良い方向に作用しました。これは今も変わってはいませんが、私は負けず嫌いです。周りの人たちに負けたくない一心で勉強するようになりました。
そして、無事、高校受験に合格し、志望していた県立長崎東高校に進学することになります。
(つづく)